巡洋艦青葉は太平洋戦争中、歴戦をくぐり抜けてきた戦艦ですが、昭和19年10月23日、ルソン島西方でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け大破、いったん呉海軍工廠に引き上げましたが修理のめども立たないまま、防空砲台として呉の警固屋地区の海岸に係留されていました。
ところが、昭和20年7月24日と28日相次いでアメリカ爆撃機の攻撃を受け、完全に破壊されてしまったということです。その際にこの地区でも3名の方がなくなり、48戸の家屋が全壊したとのことです。
ここ「巡洋艦青葉終焉の地」では、こうした戦争の事実と平和の尊さを次世代に伝えるため「青葉」に乗艦経験のある中曽根康弘元内閣総理大臣が揮毫された(書かれた)碑が建立されています。
以前は呉と音戸方面の車の往来があり、そばを通れていたのですが、現在は第二音戸大橋とそれを結ぶ警固屋バイパスが開通したため交通量もめっきり減少しました。碑そのものは住宅地の中に静かに建っています。
石碑の周りには2枚の案内板があります、こちらは巡洋艦青葉の年表が掲げられています。冒頭でもふれたとおり青葉にはたくさんの出番があったようです。しかしこの地で攻撃を受けるまでは沈没することなく歴戦をくぐり抜けてきたということです。
石碑のそばには警固屋バイパスの高架橋が見えます。見学の際には、呉方面から見ると高架橋に上がる手前に交差点がありますので、そこから側道に入ります。
現在の警固屋の前に広がる景色、穏やかな空と海が広がっています。